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【レース】日本グランプリの歴史

日本グランプリの歴史

「日本グランプリ」というと、現在では、F1(フォーミュラ・ワン)の「日本グランプリ」を指しますが、1963年から1969年まで、日本で最も権威のあるレースとしてこの名前が使われた時代がありました(7年間・計6回)。
第1回大会は1963年5月3日、完成したばかりの鈴鹿サーキットで行われましたが、メインレースは外国製スポーツカーやレーシングカーの一人舞台でした。以降、日本グランプリは毎年5月3日に開催され(1966年は非開催)、1969年からは5月3日のJAFグランプリと10月10日の日本グランプリの2本立てとなりました。
日産は、"66年R380-?、"68年R381、"69年にR382で優勝を飾りました。しかし、1970年大会は日産・トヨタが安全公害対策に専念するとして不参加を表明したことが遠因となり中止となり、1969年大会が最後となりました。なお、レースの正式名称は、第5回に当たる1968年大会から年号を冠して呼ばれるように変更されました。


K3084-28
R382のGRX-3エンジンは最高出力700ps以上

K2652-143
"68年日本GP優勝のニッサンR381(北野元)

K3111-193  "69年優勝のニッサンR382(黒沢元治)

【一般車:ダットサン】ダットサン トラックのルーツ

ダットサン トラックのルーツ

ダットサントラック・バンのルーツは、戦前の初代ダットサンまで遡ります。1932年の初代発売当時から市場には10/11型シャシーにバン型ボディを架装したものがありましたが、正式な商用車モデルとして、カタログに掲載されたのは1935年のダットサン14型トラックが最初です。戦前は14型トラック、15T〜17Tと進み、戦後は1121で復活。戦前を初代、戦後を2代目、120型トラックを3代目とすると、D22型は10代目に相当します。



1935年2月発売のダットサン14型トラック


1958年8月、本格的な輸出開始(220)

【一般車:ダットサン】ダットサンの歴史

ダットサンの歴史


【企業】雪辱を誓う中で届いた幸運な知らせ

LZエンジンの系譜:レース・ラリーで日産を支えたツインカムエンジン

「LZ」は、日産の“ツインカム空白の時代”を陰で支えたモータースポーツ用エンジン。日本GPをはじめ、サファリラリー、スーパーシルエット選手権などで輝かしい戦績を残しました。

K4251-251
LZエンジンのデビューレースとなった"73日本GP(富士)

雪辱を誓う中で届いた幸運な知らせ

「LZエンジン」は、"73年〜"83年にかけて内外のレース・ラリーで活躍したモータースポーツ用DOHC・4バルブエンジンで、「LZ」のLはL型4気筒、ZはDOHC・4バルブヘッドに改造されていることを意味しています。
LZエンジンには、LZ14、LZ18、LZ20B、LZ22Sの4機種があり、最初に開発されたのはLZ14(1.6L)でした。このエンジンは、サニー・エクセレント(KPB110)に搭載されて"73年の日本GPで優勝を飾っていますが、その誕生には1つのドラマがありました。
話は前年の"72年日本GPに遡ります。一番人気のツーリングカーレースに、日産はスカイラインGT-Rとサニーエクセレントを出場させましたが、GT-R(TS-bクラス)はサバンナRX-3に破れ、エクセレント(TS-aクラス)もセリカ・レビン連合軍に敗れるという惨めな結果となりました。とりわけロータリー勢の台頭はめざましく、GT-Rは翌年の日本GPを欠場することになりました。
このため、エクセレントはどうしても勝たねばならない立場に立たされました。"73年日本GP用として考えられていたのはL14(1.6Lにボアアップ)のEGI仕様。しかし、シングルカムのままでは180psあたりが限界。ツインカムのセリカ1600GT、レビン/トレノに確実に勝てる保証はありませんでした。
"72年6月、対策に頭を痛めていた車両実験部のスタッフのもとに朗報が飛び込んできました。
"73年からFIAの規則が変更になり、ボルトオンオプションのDOHCヘッドが認められる」という内容でした。DOHC化できれば大幅な馬力アップが可能、トヨタ勢に「確実に勝てる」メドが立ったというわけです。
直ちにプロジェクトチームが結成され、9月に図面完成、"73年1月に初号機テスト開始、2月には走行テストというタイトなスケジュールでした。そんな状況の中、2月28日にはJAFの公認も発効し、富士スピードウェイでの本格的な走り込みが始まりました。



バルブ挟角が狭く燃焼室が浅いのがLZヘッドの大きな特徴

"73日本GPでデビュー・ウインを飾る!
そして迎えた"73日本GP(5月3日)。日産ワークスは、1高橋国光、2北野元、3都平健二、5鈴木誠一、6辻本征一郎、7寺西孝利、8篠原孝道、9柳田春人、10久保田洋史と9台のLZ14搭載エクセレントを出場させました。
レースは、2北野元(1分31秒17でポールポジション)が独走して優勝。2〜3位もワークスエクセレントが独占して、LZエンジンのデビューを圧倒的な勝利で飾りました。
"73日本GPで使われたLZ14は、1,598cc(φ87.8mm:4.8mmボアアップ)。EGI仕様で最高出力200ps/9,400rpm、最大トルク17.0kgm/6,800rpm。シリンダーヘッドは鋳鉄製からアルミ合金製に変更され、16本の吸排気バルブもチタン製です。バルブ挟角が34°と狭く、燃焼室は理想的な浅いペントルーフ型で、圧縮比は11.5〜12.0。軽合金製ピストンはフラットヘッドで深めのバルブリセスを持ち、鏡面研磨された鍛造スチール製コンロッドとセットで厳密な重量合わせが行われています。
カムシャフトの駆動系は、ギヤ式とチェーン式を組み合わせた独自の方式で、クランク側が4ステージのギヤドライブ、カム側がダブルローラーチェーンというメカニズム。カム駆動系を収容するハウジングが薄いのもLZエンジンの特徴です。ヘッドカバーは、後年のフラットタイプとは異なる丸味のある形状で、塗装も黒の結晶塗装となっています。
LZエンジンの一番の注目点は、全高が高くなりがちな狭角配置のバルブレイアウトを採用していながら、短期間でスペースの限られた市販車のエンジンルームに収まるコンパクトなレーシングエンジンを開発したことでしょう。

LZ20B

LZ20B

海外ラリーでも大活躍したLZエンジン
その後、活躍の場は、レギュレーションの関係もあって、海外ラリーが主な舞台となりました。LZ18はバイオレット(710)に搭載されて"77年豪州サザンクロスラリー優勝、LZ20Bはバイオレット(A10)に搭載されて "78〜"80年のサザンクロスラリーと"81〜"82年のサファリラリーを制覇しています。ラリー仕様の出力は、LZ18(1,941cc)が200ps/7,200rpm、LZ20B(1,952cc/1,975cc)が210〜220ps/7,600rpmでした。
国内でも、"78年に環太平洋選手権を目指してスタートしたフォーミュラパシフィック(FP1600)で、久々にLZ14(1,598cc・225ps以上)が活躍、"78年の5戦全戦、"79年の6戦全戦で優勝しています。"78年5月、FP用キットが204万円で大森スポーツ相談室(現・ニスモ)から発売されるなど、多方面で活躍した唯一の国産レーシングエンジンです。
LZの歴史で、有終の美を飾ったのはLZ20Bターボ(2,082cc)でした。"79〜"83年のシルエットフォーミュラ(スーパーシルエット:グループ5)で使われたこのエンジンは、初期のもので500ps、最終仕様では570psと、当時のF1を凌ぐハイパワーを誇りました。スカイライン(長谷見昌弘)、シルビア(星野一義)、ブルーバード(柳田春人:"80/"82チャンピオン)の日産ターボ軍団の活躍は、日本のファンに大パワーマシンによるレースの醍醐味を実感させるとともに、その後のグループCカーによる耐久選手権(JSPC)へとつながる道を拓きました。

【一般車:その他モデル】サニーの車名は850万通の公募から

サニーの車名は850万通の公募から

サニーの発売に当たっては、大々的な車名公募キャンペーンが展開されました。これには、本格的な大衆車の登場を待ち望んでいる人々の関心を高めるとともに、新型車の車名を強くアピールする狙いがありました。
昭和41年(1966)の元旦の新聞に、新型車が1,000ccであることを伝え、その車名を募集する内容の広告が掲載されました。そして、2月の締切日まで、車両の概要を少しずつ公開して新型車の登場を盛り上げました。この宣伝手法はティーザーキャンペーン(じらし広告)と呼ばれるもので、大変話題になりました。
応募数は848万件(38万通り)にもなりましたが、「明るく快活で若々しい新型車のイメージにふさわしい」という理由で、その中から「サニー」が選ばれました。なお、車名公募は、後の初代マーチでも実施され、ニューモデルの登場を大いに盛り上げました。


K1870-261
1966年2月19日、入選者の抽選会を兼ねて行われたサニーの車名発表会(東京千駄ヶ谷の都立体育館)

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