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【レース】スーパーシルエット・レース

スーパーシルエット・レース

“スーパーシルエット”は、FIAのグループ5に当たるカテゴリーです。改造許容範囲が広く、市販車のシルエットをしているものの中身はフォーミュラと同じという意味で、ヨーロッパでは“シルエット・フォーミュラ”と呼ばれていました。
日本では"79年から"83年まで、富士を中心に本格的にシリーズ戦が組まれ人気を呼びました。最少生産台数の規定もなく、エンジンも生産車のブロックを使用していればあとは自由ということから、ターボ装着で570ps、と当時のF1をもしのぐ大パワーを誇り、その迫力ある外観とあわせて多くの観客を魅了しました。
日産車では、バイオレット(710/A10)、ブルーバード(910)、シルビア(S110)、スカイライン(R30)が参加。柳田春人選手が"80年にA10で"82年に910でチャンピオンに輝いています。


スーパーシルエット(シルビア)のフロントまわり

【レース】全日本選手権・JTCCレース

全日本選手権・JTCCレース

"94年から、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)は、それまでの「グループA」に代わって「ニューツーリングカー」で戦われることになりました。
後に“スーパーツーリング”と呼ばれたこのカテゴリーは、当時ヨーロッパで盛んだった4ドアセダンのレースで、エンジンは2L NAのみ(同じメーカーのエンジンなら乗せ換え可)、エンジンの最高回転は8,500rpmまで、車両最低重量はFF車950kg、FR車1,050kgと決められていて、イコールコンディションによるスリリングなレース展開が最大の魅力でした。また、1日に2レース行われるのもこのレースの大きな特徴でした。 日産車は、"94〜"97年の4シーズン、ニスモを中心にホシノレーシング、ハセミモータースポーツなどの有力チームから、プリメーラ、サニー、プリメーラ・カミノが出場しました。



JTCCに出場できるのは2,000ccの4ドアセダン

【一般車:その他モデル】実用自動車とリラー号

実用自動車とリラー号

自動車揺籃期には思いがけない先達が登場し、事業発展の礎となりました。米国人ウィリアム・R・ゴーハムは、大正8〜9年(1919〜20)に3輪自動車の開発に成功、これに刺激を得た大阪の事業家(久保田鉄工所社長ら)が、実用化をめざして設立したのが「実用自動車製造(株)」でした。同社は、大正15年(1926)に「ダット自動車製造(株)」となるまでの間に、ゴルハム式3輪自動車、同4輪自動車を約100台、リラー号を約200台生産しました。
中でも、大正12年(1923)に登場したリラー号は、日本の道路事情を考えた実用的な4人乗り小型4輪車として、後のダットサンのコンセプトにも大きな影響を与えました。エンジンはV型2気筒・1,260cc・標準馬力8.4馬力(最高出力10馬力)、A型セダン、幌型、ロードスター、トラックと車種構成も豊富でした。とくに、セダンの藤色のボディカラーは当時、非常な人気を呼びました。リラーとはライラック(藤の花)の意味でした。ロードスターは2人乗りながら、トランクに予備席1名分を持ち、最高速度56km/hの高性能を備えていました。
実用自動車はその後、国(軍部)の指導もあり、大正15年(1926)に東京のダット自動車商会と合併しますが、同社で活躍したW・R・ゴーハム(日本に帰化)は、引き続き自動車の開発に携わり、最後は日産の役員まで務めました。



大正12年に実用自動車が完成させたリラー号(写真は後期型)。DATとともに日産車のルーツとなったモデルです。標準馬力6kW(8.4ps)、4人乗り、最高速度56km/h。「リラー」とはライラック(藤の花)の意味です

【企業】日産自動車の設立

日産自動車の設立

米国車に対抗できる乗用車を是非とも日本で量産したい ‥‥ 昭和初期の日本において、鮎川義介が描いた夢は遠い将来をしっかりと見据えたものでした。
昭和8年12月に「自動車製造(株)」が設立登記され、戸畑鋳物自動車部と、同部大阪工場に属する営業権ならびに資産すべてが自動車製造(株)に移され、同時に、後に日産の看板車種となるダットサンの製造・販売権もすべて移管されました。
自動車製造(株)は、翌9年5月の第1回定時株主総会で、「日産自動車株式会社」と社名を改め、同時に戸畑鋳物所有の同社株式全額を、日本産業が肩代わりすることになりました。
統計によると、同9年のわが国における自動車供給状況は、輸入完成車896台、輸入組立車3万3,458台と輸入車が大半を占め、国産車はわずか2,247台でした。こうした情況の中で、鮎川(日産自動車の社長も兼務)は、「年産2万5,000台は必要。仮に1台1,000円損するとして2,500万円の欠損を覚悟しなければならない。本来なら国家が為すべきことだが、一向にやらないので、私がやる」と明言して量産化に着手しました。


K8308-4
昭和10年4月12日、横浜工場で最初のダットサン(14型セダン)がオフライン。同工場は、日本で最初にベルトコンベアーを導入した近代的な量産工場でした

【レース】日産、JSPC初の3連覇達成

日産、JSPC初の3連覇達成

JSPCとは全日本スポーツプロトタイプ耐久選手権の略で、グループCカーによる全日本選手権のことです。このカテゴリーによるレースは、日本では"82年に「耐久シリーズ」の名でスタート、その後のWECジャパン(世界耐久選手権日本大会)の成功もあり大いに盛り上がりました。
当初は、ル・マンの覇者ポルシェが圧倒的な強さを誇っていましたが、次第に国産マシンが力をつけ、"90年にはYHP・ニッサンR90CP(長谷見/オロフソン組)が初の日本車チャンピオンとなり、"91年〜"92年はカルソニック・ニッサン(星野/鈴木組)が制し、日産はメーカー/ドライバー両部門で3連覇の偉業をなし遂げました。とくに全日本選手権最後の年となった"92年は、日産マシンが6戦全勝(ターボ車クラス)を挙げる快勝ぶりで、その信頼性の高さを証明しました。



耐久レースでは燃費のよさも重要な要素でした。このため、テレメトリーシステムが活躍しました

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