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【企業】雪辱を誓う中で届いた幸運な知らせ

LZエンジンの系譜:レース・ラリーで日産を支えたツインカムエンジン

「LZ」は、日産の“ツインカム空白の時代”を陰で支えたモータースポーツ用エンジン。日本GPをはじめ、サファリラリー、スーパーシルエット選手権などで輝かしい戦績を残しました。

K4251-251
LZエンジンのデビューレースとなった"73日本GP(富士)

雪辱を誓う中で届いた幸運な知らせ

「LZエンジン」は、"73年〜"83年にかけて内外のレース・ラリーで活躍したモータースポーツ用DOHC・4バルブエンジンで、「LZ」のLはL型4気筒、ZはDOHC・4バルブヘッドに改造されていることを意味しています。
LZエンジンには、LZ14、LZ18、LZ20B、LZ22Sの4機種があり、最初に開発されたのはLZ14(1.6L)でした。このエンジンは、サニー・エクセレント(KPB110)に搭載されて"73年の日本GPで優勝を飾っていますが、その誕生には1つのドラマがありました。
話は前年の"72年日本GPに遡ります。一番人気のツーリングカーレースに、日産はスカイラインGT-Rとサニーエクセレントを出場させましたが、GT-R(TS-bクラス)はサバンナRX-3に破れ、エクセレント(TS-aクラス)もセリカ・レビン連合軍に敗れるという惨めな結果となりました。とりわけロータリー勢の台頭はめざましく、GT-Rは翌年の日本GPを欠場することになりました。
このため、エクセレントはどうしても勝たねばならない立場に立たされました。"73年日本GP用として考えられていたのはL14(1.6Lにボアアップ)のEGI仕様。しかし、シングルカムのままでは180psあたりが限界。ツインカムのセリカ1600GT、レビン/トレノに確実に勝てる保証はありませんでした。
"72年6月、対策に頭を痛めていた車両実験部のスタッフのもとに朗報が飛び込んできました。
"73年からFIAの規則が変更になり、ボルトオンオプションのDOHCヘッドが認められる」という内容でした。DOHC化できれば大幅な馬力アップが可能、トヨタ勢に「確実に勝てる」メドが立ったというわけです。
直ちにプロジェクトチームが結成され、9月に図面完成、"73年1月に初号機テスト開始、2月には走行テストというタイトなスケジュールでした。そんな状況の中、2月28日にはJAFの公認も発効し、富士スピードウェイでの本格的な走り込みが始まりました。



バルブ挟角が狭く燃焼室が浅いのがLZヘッドの大きな特徴

"73日本GPでデビュー・ウインを飾る!
そして迎えた"73日本GP(5月3日)。日産ワークスは、1高橋国光、2北野元、3都平健二、5鈴木誠一、6辻本征一郎、7寺西孝利、8篠原孝道、9柳田春人、10久保田洋史と9台のLZ14搭載エクセレントを出場させました。
レースは、2北野元(1分31秒17でポールポジション)が独走して優勝。2〜3位もワークスエクセレントが独占して、LZエンジンのデビューを圧倒的な勝利で飾りました。
"73日本GPで使われたLZ14は、1,598cc(φ87.8mm:4.8mmボアアップ)。EGI仕様で最高出力200ps/9,400rpm、最大トルク17.0kgm/6,800rpm。シリンダーヘッドは鋳鉄製からアルミ合金製に変更され、16本の吸排気バルブもチタン製です。バルブ挟角が34°と狭く、燃焼室は理想的な浅いペントルーフ型で、圧縮比は11.5〜12.0。軽合金製ピストンはフラットヘッドで深めのバルブリセスを持ち、鏡面研磨された鍛造スチール製コンロッドとセットで厳密な重量合わせが行われています。
カムシャフトの駆動系は、ギヤ式とチェーン式を組み合わせた独自の方式で、クランク側が4ステージのギヤドライブ、カム側がダブルローラーチェーンというメカニズム。カム駆動系を収容するハウジングが薄いのもLZエンジンの特徴です。ヘッドカバーは、後年のフラットタイプとは異なる丸味のある形状で、塗装も黒の結晶塗装となっています。
LZエンジンの一番の注目点は、全高が高くなりがちな狭角配置のバルブレイアウトを採用していながら、短期間でスペースの限られた市販車のエンジンルームに収まるコンパクトなレーシングエンジンを開発したことでしょう。

LZ20B

LZ20B

海外ラリーでも大活躍したLZエンジン
その後、活躍の場は、レギュレーションの関係もあって、海外ラリーが主な舞台となりました。LZ18はバイオレット(710)に搭載されて"77年豪州サザンクロスラリー優勝、LZ20Bはバイオレット(A10)に搭載されて "78〜"80年のサザンクロスラリーと"81〜"82年のサファリラリーを制覇しています。ラリー仕様の出力は、LZ18(1,941cc)が200ps/7,200rpm、LZ20B(1,952cc/1,975cc)が210〜220ps/7,600rpmでした。
国内でも、"78年に環太平洋選手権を目指してスタートしたフォーミュラパシフィック(FP1600)で、久々にLZ14(1,598cc・225ps以上)が活躍、"78年の5戦全戦、"79年の6戦全戦で優勝しています。"78年5月、FP用キットが204万円で大森スポーツ相談室(現・ニスモ)から発売されるなど、多方面で活躍した唯一の国産レーシングエンジンです。
LZの歴史で、有終の美を飾ったのはLZ20Bターボ(2,082cc)でした。"79〜"83年のシルエットフォーミュラ(スーパーシルエット:グループ5)で使われたこのエンジンは、初期のもので500ps、最終仕様では570psと、当時のF1を凌ぐハイパワーを誇りました。スカイライン(長谷見昌弘)、シルビア(星野一義)、ブルーバード(柳田春人:"80/"82チャンピオン)の日産ターボ軍団の活躍は、日本のファンに大パワーマシンによるレースの醍醐味を実感させるとともに、その後のグループCカーによる耐久選手権(JSPC)へとつながる道を拓きました。

【企業】プリンス自動車工業小史

プリンス自動車工業小史

昭和41年に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の前身は、第2次大戦中の傑作エンジン「栄」(零戦・隼)や「誉」(紫電改)を生んだ中島飛行機と、周回長距離世界記録を持つ長距離偵察機を生んだ立川飛行機です。
敗戦を機に富士産業と名を変えて平和産業への転換をめざした中島飛行機でしたが、GHQの命令(財閥解体)で12の会社に分割されてしまいます。その中の1社、富士精密工業はディーゼルエンジンからミシン、映写機までを手がける幅広い事業を展開する会社でした。そして、昭和26年に完成させたガソリンエンジン(1,500cc・45馬力)が翌年発売された「プリンス」に搭載されて高い評価を得ました。
一方、立川飛行機は電気自動車「たま」の開発でその名を高めますが、石油の輸入緩和で電気自動車の需要が減少したため、ガソリン車への転向をはかります。そして、社名を東京電気自動車→たま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業と変えた後、昭和29年にエンジンの供給元だった富士精密工業と合併しました。
合併で自動車メーカーとしての体制を整えた富士精密工業は、社名とブランド名の一致をはかるため、昭和36年に再びプリンス自動車工業と改称。その後、スカイライン、グロリアなどの傑作車を次々と生み出すとともに、レースの世界でも圧倒的な強さを発揮しました。



東京上野の科学博物館に展示されているラムダ4Sロケット。科学衛星「おおすみ」の打ち上げなどに使われたロケットで、日産自動車が製造を担当。航空機メーカーの血を引くプリンスは、その高い技術力を活かし、昭和28年から固体ロケットの分野で活躍してきました

【企業】日産自動車の設立

日産自動車の設立

米国車に対抗できる乗用車を是非とも日本で量産したい ‥‥ 昭和初期の日本において、鮎川義介が描いた夢は遠い将来をしっかりと見据えたものでした。
昭和8年12月に「自動車製造(株)」が設立登記され、戸畑鋳物自動車部と、同部大阪工場に属する営業権ならびに資産すべてが自動車製造(株)に移され、同時に、後に日産の看板車種となるダットサンの製造・販売権もすべて移管されました。
自動車製造(株)は、翌9年5月の第1回定時株主総会で、「日産自動車株式会社」と社名を改め、同時に戸畑鋳物所有の同社株式全額を、日本産業が肩代わりすることになりました。
統計によると、同9年のわが国における自動車供給状況は、輸入完成車896台、輸入組立車3万3,458台と輸入車が大半を占め、国産車はわずか2,247台でした。こうした情況の中で、鮎川(日産自動車の社長も兼務)は、「年産2万5,000台は必要。仮に1台1,000円損するとして2,500万円の欠損を覚悟しなければならない。本来なら国家が為すべきことだが、一向にやらないので、私がやる」と明言して量産化に着手しました。


K8308-4
昭和10年4月12日、横浜工場で最初のダットサン(14型セダン)がオフライン。同工場は、日本で最初にベルトコンベアーを導入した近代的な量産工場でした

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